皆さんこんにちは!!
私は日系ブラジル人の主人と、
2人の子供と一緒にブラジル・サンパウロに住む、主婦です。
今日はサンパウロの歴史について、お伝えしたいと思います。
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サンパウロは一人の宣教師によって始まった
サンパウロはキリスト教の宣教団の一人、ジョゼ・デ・アンシエタという一人の宣教師の手によって1554年に創設されました。
しかしサンパウロは内陸にあるため、諸外国との公益には不便でした。
そのため当時のブラジルの主力産業である、サトウキビ農園などもありませんでした。
サンパウロが都市として発展してきたきっかけは、17世紀中ごろの奥地探検隊の拠点となったことから始まりました。バンデイランテスがサンパウロの奥地にあった、イエズス会の集落を襲撃して、原住民のインディオを奴隷として人身売買を行いました。
その中で奥地を開発して、サンパウロの拠点としての重要性は向上していきました。
サンパウロの奥地に集落をつくっていた宣教団は、スペインの支持の元に活動していましたが、バンデイランテスの襲撃によって、退去を迫られました。
このバンデイランテスの進出がきっかけで、ポルトガルの勢力が大きく西へと伸びるきっかけとなりました。
1693年にバンデイランテスによって金鉱も発見されて、これがブラジル発展へのきっかけとなりました。
その後、金を採掘するためにやってきた山師と、サンパウロの市民たちとの関係は悪化して、1708年にはエンボーア戦争へと発展しました。
コーヒーが育てたサンパウロ
1800年ごろにはサンパウロはそれなりに発展していましが、それでも地方都市のひとつとして扱われていました。ブラジルの首都であるリオデジャネイロとは比べ物にならない小さな都市でした。
1830年ごろからサンパウロ州でコーヒー栽培が盛んになりました。
サンパウロの気候や土地には、コーヒー栽培にはあっていたようです。
ちょうどその頃は産業革命よって、コーヒーの需要が伸びるという時代背景がありました。
逆境を乗り越えた、ブラジル・日系人
約100年前に日本からはるばる何ヶ月もかけて、ブラジルへ移住してきた日本人の数はおよそ25万人といわれます。
ブラジルには日系人以外の人と結婚した人を含めると、約150万人の日系人が存在し、その数は世界でも最大規模といわれます。
ブラジルの日系人が多く住んでいるのは、サンパウロで約100万人が住んでいるといわれます。
ホンダやトヨタなどの自動車産業をはじめ、日系企業が数百社も存在しています。
日本人の勤勉さと教育の質の高さから、人から尊敬されるような職業、医者、弁護士、教師、政治家、芸術家などを多く輩出しています。
草や木の根が生い茂り、鍬を下ろすこともできないような土地をあてがわれ、住居は家畜小屋のほうが立派と思えるほど、粗末なものでした。
泥の中に咲く蓮華のように、ブラジルに移住してきた日本人の方々は壮絶な苦労の中から、
ブラジルの国内最高の教育機関である、サンパウロ大学の学生の15パーセントが日系人であり、教員の8パーセントが日系人であると言われるようになりました。
ブラジルに根付いた日本の文化
ブラジル・サンパウロにはリベルダージと呼ばれる日本人が開発した町があります。
食べ物はもちろん、着物や布団、電化製品、本やCD,DVDなども買うことができます。
日本語の通じる日本人向けの病院も、このリベルダージにあります。日系人が何かとお世話になる、BUNNKYO(文教)やブラジルではじめての日本式寺院もリベルダージから始まりました。
また日本のアニメやゲームなどもかなり浸透していて、リベルダージでは日本の秋葉原さながらの、コスプレイヤーに遭遇することもあります。
このリベルダージで人気のある食べ物は、ラーメン屋さんです。
いつも行列で子供連れの我が家は、待ちきれなくて結局別のお店に入ることが多いです。
リベルダージ駅前の広場には屋台の店が並んでいて、我が家では餃子やたこ焼きなどを食べるために朝食抜きで片道2時間かけて出かけます。
またお気に入りの定食屋さんでは、朝早いうちにカレーパンと肉まんを買っておとり置きをしておきます。こうしておかないと土日はすぐに売切れてしまいます。
そして日本語のDVD や本などを買って、のりや鰹節などの和食の食材を買って帰ります。まさに地球の反対側にある「日本」なのです。
まとめ
ブラジル・サンパウロの歴史や、切っても切ることのできない、日本とブラジルの関係などをお伝えしてきました。
学校の教科書だけではわからないことも、あったと思います。
日本でも最近は出稼ぎの日系ブラジル人の方が多くいますが、彼らはみなブラジルに移住した日本人の子孫です。
どうか差別などしないで暖かく見守っていただけたらと、切に願っています。

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