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虐待の負の連鎖 虐待を受けた子は虐待する母になるのか「大阪二児置き去り死事件」

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虐待の負の連鎖 虐待を受けた子は虐待する母になるのか「大阪二児置き去り死事件」

この年になると、こんにちは!!!の挨拶くらいの頻度で「子どもはいるの?欲しいの?」みたいな質問をされる。その度に、私は一生子どもを持たないと思うと答えるのだが、皆、「こいつは非国民だ」と言わんばかりの表情をし、子を持つことの素晴らしさを私に訴えてくる。その度に私は辟易するのだ。もし、私が何らかの原因で子を持てない病気であったりしたら、こいつら・・・と。(まぁ、違うが)

悪く思う人もいて当然だと思う、人それぞれの考えがある。生き物として認識をするのなら女という動物として失格だと罵られても良い。

私は反出生主義者だ。反出生主義とは、人生は苦しいことが多いし、幸福の多い人生だったとしても最後には死の苦しみを味わうことになるが、生まれないことによってこれらをすべて回避できるから、人は出生すべきではない、という考え方である。

あら可哀想な人生をおくってきたのねアラアラ、そう思ってくれた貴方は正解。私は一度も産まれてきて良かったなど思った事がない。いろいろあるけど人生ハッピー!!な人たちは、私の代わりにボンボン産んでくれて頼むよって感じだ。ただ誤解しないでほしいのだが、私は子どもが好きだ。可愛いし、あの子どもの甘い香りも好きだ。そして虐待事件は許せない。

虐待事件が表に出るとき、必ずと言って親の闇があぶり出される。たとえば、親も虐待をされた経験がある、というもの。「虐待されていたから、自分の子どもにも手をあげてしまったんだろう」と、コメンテーターの誰かが言う度に悲しくなる。虐待された経験があっても、虐待をしていない親は腐る程いる。だが、虐待された過去を持つ私の口からその言葉を言ってもきっと、何の説得力も持たないだろう。結局は、私が子を産み育て、巣立った時にしか言えない言葉だと思うのだ。虐待は有り得ない、私はしない、なんて言葉なんの意味もないのだ。そして私は全てが怖い、自分の子が産まれ、この世の理不尽に嘆くことも、死を恐怖と捉える姿も、子を置いて先に逝く自分、その先の子の人生、何もかもが。

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大阪二児置き去り死事件

2010年夏、3歳の女児と1歳9カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた……。なぜ幼い二人は命を落とさなければならなかったのか。それは母親一人の罪なのか。事件の経緯を追いかけ、母親の人生をたどることから、幼児虐待のメカニズムを分析する。現代の奈落に落ちた母子の悲劇をとおして、女性の貧困を問う渾身のルポルタージュ。

ニュースでも連日取り上げられ、この事件を元にして作られた映画も出来たことから、知っている方も多いかもしれない。

「困った時は誰かに頼るんやで」と教えてもらえなかった子どもが、大人になって容易に誰かを頼ることができるのだろうか、いや、出来ない。本書を読んで一番に思ったことは、子どものまま、親になってしまったんだなということ。誰からも愛されている自信が無いまま、性だけを頼りに惹きつけていく様子は泣けるほど悲しい。

居間の扉に粘着テープを貼り、玄関に鍵をかけ、子どもを餓死させておいても尚、母親は「子供のことを今でも愛している」と語る。自宅に50日放置された子は、一体どんな気持ちだったのだろう。想像すると胸が潰れそうになる。

子供のころ、私は時間の流れがとても遅いように感じた。この子達も同じだろう、ママ、ママと叫び喉は枯れ、涙も出ない。インターフォンから漏れ出たママ、ママという声はマンションの廊下にも響き渡っていたという。子どもを置き去りにした罪悪感、恐怖感を消すように男と会い、SNSに掲載する母である被告も、幼少期に育児放棄を受けていたという。

自宅に戻り、我が子の亡き姿を目にした後でも男と会いホテルに向かったという報道を見たとき、悪魔だと思ってしまった。悪いのは、この母親だけではないはずなのだ。いくらでも手を差し伸べられる人はいたはずであり、警察だってもっと早くに気付けていれば。産まれた時から悪魔な人間などいるはずがない、どこかで誰かによって、何かのきっかけによって、そうなってしまったんだと私は思う。悪魔になってしまった、この母親も、ひとりで悪魔になったのでは無いはずなのだ。

このルポを読むと、思っていた被告とは違う表情に驚く。どんな極悪人で、どんな冷酷な姿かと思えば、ただ臆病なたった一人の少女が現れる。被告は、怯えていたのだ。自分は母親になれているかと、これで大丈夫なのかと。周りの人に助けを求めていても、それが交わされ流され、小さな不幸が重なり大きな不幸になっていく。読むと、もう、わからなくなった。誰が悪くて、どこで間違えたのか。ただ、養育費も与えず、手を差し伸べようともしなかった元夫が被害者面しているのは違うだろう、と拳を握りたくなる。

懲役30年というのは、長いのか、短いのか。私には答えられないし、答える資格があるとも思っていない。ニュースを見て、ルポを読んで、ネットで細部をくまなく調べたって、何も分からないからだ。被告本人が、あのとき本当はどんな気持ちだったのか、七年経って、今はどんな気持ちなのか。子供との関係は、どうだったのか、今でも愛しいと思っているのか。あれから七年、もし生きていれば上の子は小学生高学年になる。正直、普通じゃ考えられない。虐待というより、ただの殺人である。一部報道では、子供たちが腹を空かし過ぎて自分たちのオムツを食べていたというものまであった。

今更嘆いてもどうにもならないが、これからは変えられるだろう?今もどこかで起こっている虐待を、どうにか止められないものか。母親、父親だけの問題では無い。私たちひとりひとりがもっと、意識していかなくてはならないのではないか。自分だって生まれてきた時から大人だったわけじゃない。子供を支える、親を支える。親も、支えられていることを当たり前とせず、個々が感謝の気持ちを持てれば・・・。人とのつながりを、改めて考える。自分にしか出来ないことを考えてみる、未来の子供の輝く笑顔のために。



chiyoda

書くこと、読むこと、そして考えることを、こよなく愛しております。

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