例えば側に、どこからやって来たのか、今迄何をしていたのか分からない異性がいたとして、しかもどことなく、近場であった殺人事件の犯人に顔が似ているとしたら、あなたは通報しますか?
人を信じるというのは、とても難しい。いつのまにか信じて、いつのまにか裏切られて、そして、また人をいつのまにか信じるという繰り返しを、私は26年間続けているように思う。裏切られる度に、懲り懲りだ人間というのは糞だ!と怒り狂い絶望するのだけれど、気がついたらまた人を信じているから、怖い。
先ほどの質問に戻って私が答えるとすると、私は通報しない。信じているから通報しない!わけではない。確実に、そんな人が近くにいたら私は疑う人間である。というのも事件マニアだし、常に他人を容疑者だったら?という妄想で生きてもいる酷い人間であるので、そんな人が近くにいれば、もしやのもしやってこともありうるね?と観察してしまうだろう。
だがしかし、もし、だ、もし、自分が疑っている人間が殺人事件の犯人では無かった場合、通報した時、確実に私は傷付く。信じてやれなかった自分の愚かさと、その人への申し訳なさで、傷付く。という事が私自身分かっているので、通報はしないだろう。
じゃあもし、疑っていた人が、やっぱり殺人犯だったよ!というオチになったとしたら、、、それでも多分、私は最後の最期まで、その犯人のそばにいて、その犯人の真を探ろうとしてしまうと思う。どうしてそこに至ったのか、そこまでに救いは無かったのか。
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今回紹介する一冊は『怒り』吉田修一
ある夏の日。八王子で夫婦が殺害される事件が起きた。その現場には、手のひらに付着した血液で書かれたとされる「怒」という文字が残されていた。その犯人は「山神一也」と判明するも逃亡、整形をして1年以上、今もどこかで”普通の生活”を送っているという。
そんな折、東京と千葉と沖縄の3つの舞台で「山神一也」と思しき人物が。
彼ら三人は身元不詳だったり偽名を使っていたり、無人島に一人で住んでいたりと、一様に怪しさ満点。やがてその三人は人生のターニングポイントともいえる人物に遭遇し、それぞれの暮らしを営んでいく。
他人を思うが故に明かせない秘密が、相手にとっては疑惑の一つになってしまうこと、愛しているから信じたいという願い、信じたいのに信じられないという自分の弱さ、一人一人の心情が細かく丁寧に書き出されているところが流石吉田修一としか言いようがない。
映画化されたときに映画館へ観に行ったが、こんなに心臓をキツく潰されるような感覚になった映画は無い。とにかくキャストが皆素晴らしく演じてくれ、素晴らしいからこそ、つらいと思ってしまった。だいたい映像化されるときは原作が勝るが、この作品は、映画が秀逸。キャスティングが豪華ということもあるが、何にせよ犯人の山神一也を演じてくれた、あの役者さんが、拍手をしたいほどにそのまんま山神一也を演じ切ってくれた。
信じるということ、裏切るということ、人を愛するということ、どうしようもなく高い壁を見上げるように立ち尽くす読了感。人間の奥深くに潜む悪を炙り出してくれる作家さんだと私は思う。
この作品での犯人は同情の余地が無い、結局何を考えているのかも分からないし、本当に狂っているとしか言いようがなく、ここまで理解出来ないと怖いというか不気味を通り越してしまう。でも、くくれば私たちと同じ人間であり、こんな奴からでも貰った言葉に救われたり、ありがとうと心から思ったりもするわけだ。それが悲しくもあり、切なくもあった。今までどんな人生を歩んでどこで間違えた?犯人の背景が気になってしまう。そこはもっと書き出してくれたら良かったかなと思った。
上下巻に分かれるが、どちらも薄い。なのに揺さぶってくる熱さが、作家の想いのように感じた。

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