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日本とブラジルの深い歴史とは?苦難を乗り越えた日系人

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日本とブラジルの深い歴史とは?苦難を乗り越えた日系人

皆さんこんにちは

私は日系ブラジル人の主人とともに、ブラジルサンパウロに 住んでいます。 ブラジルサンパウロには世界最多と言われる日系人が住んでいます。

そんな教科書ではなかなか教えることのない、ブラジルと日本との関係を探っていきたいと思います。

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ブラジルと日本の歴史・年表

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1892年 ブラジル政府による日本人移民の受け入れを発表する。

1895年 日伯修好通商航海条約が締結 される。

1908年 笠戸丸による移民の輸送が開始される。

1915年 ブラジル初めての日本人学校が誕生する。

1917年 海外興業株式会社が設立される。

1919年 ブラジル初の農業組合、 日伯産業組合が設立される。

1929年 ブラジル拓殖組合が設立される。

1938年 ブラジル・バルガス大統領による移民同化政策が実施される。

1941年 日本人移民の受け入れ停止が実施される。

1942年 日伯国交断絶

1945年 第二次世界大戦において、ブラジルが日本に宣戦布告する。

1951年 日伯の国交が回復する。

1953年 日本移民の受け入れが再開される。

1954年 ブラジル初となる日系二世の連邦議会議員が誕生する。

1969年 ブラジル初となる日系二世の商工大臣が誕生する。

1973年 移民船による移民の廃止がされる

1980年 サンパウロ市議会において「日本移民の日」( 6月18日 )が設定される。

1989年 日本の出入国管理法が改正され、 日系ブラジル人労働者の受け入れが始まる。

2008年 日本移民100周年の式典が開催される。

過酷な運命の始まり

1880年にブラジルの奴隷制度が廃止されると、 ブラジルの主力産業である、さとうきびやコーヒー農場の人手不足に悩まされた農場主達は、それまで働いていた奴隷に変わり、新たな労働力を求めていました。

 

そこでブラジル政府は日本のみならずドイツ家イタリアなどの国々から移民を募りました。

 

1895年には「日伯修好通商航海条約」が締結され リオデジャネイロに髪の日本人公使館が設立されました。

 

 

日本からブラジルまで約半年をかけて、笠戸丸などの移民船でブラジルへ渡ってきた、多くの日本人は小作人として大農場で、奴隷同然の待遇をうけました。

 

与えられた農地は木や草の根が生い茂り、 鍬を入れることさえできないような土地でした。

与えられた住居はさらにひどく、家畜小屋の方が立派だと思えるような有様でした。

 

さらに与えられた賃金はわずかであり、 日本へ帰るための貯金をするどころか借金ばかりが膨らむこととなり、結果的に農場主達は小作人を農場に縛り付けることに成功したのでした。

 

このため夜逃げが相次ぎ、逃亡先の土地を開拓。

結果として自分の農場をもつ日本人が増えていきました。

 

ブラジルの農業に貢献

多くの日本人が小作人として働く、コーヒー農園やサトウキビ農園などから逃亡して行き着いた先々で、農地を開拓し自分たちの農園を持つに至りました。

 

1919年には初めての日系の農業組合として、ミナスジェライス州に日伯産業組合が誕生しました。

 

この時はまだ多くの日系移民は、サンパウロ州やパラナ州などに多く住んでいました。 その後 サンパウロに「コチア産業組合」 が設立されました。

 

これをきっかけに、その後多くの農業組合が設立されブラジルの農業の発展に、大きな役割を果たすことになっていきます。

キング・カズを支えた日系サポーターたち

サッカーの王様ペレや、ブラジルワールドカップで活躍したネイマールなどを育てたチームとして有名な、サントス FC は我らがキングカズこと三浦知良を育てたチームでもあります。

 

まだブラジルに来たばかりの頃は思うようにプレーができず、諦めて日本へ帰ることも考えたようです。

 

ところがリオデジャネイロの公園に立ち寄った時に、裸足でサッカーをする少年たちに混ざって、片足のない少年の姿があって、「 自分は何を贅沢なことを言っているんだ、自分は両足もあるし新しいボールだって スパイクだってあるじゃないか」と思い、日本へ帰る事を思いとどまったそうです。

 

そして1982年に日系人の多く住む地域である 、パラナ州のコリチーバFCに移籍した際に、チームをパラナ州選手権で見事に優勝に導びいた、同じ日本人の三浦知良少年が活躍する姿を見て、大喜びしていたそうです。

 

多くの日系人サポーターに支えられ、三浦知良は注目を浴びるようになっていきました。

 

ちなみに我が家の主人は、このサントスFCの筋金入りのサポーターです。サントスFCの試合があるときはテレビの前は離れません (笑)

 

まとめ

ここまで日本とブラジルの、切っても切り離せない関係について、ご紹介してきました。

 

今日系人はブラジル社会にとって、なくてはならない存在となっています。医者、弁護士 、教師など、比較的社会的地位の高い日系人も多く存在します。

ひかりん

ブラジル在住の主婦

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